覆面作家の社会時評

なんかヘンだな、と思うこと、ありませんか

覆面作家が斬る【社会時評】それでもこれだけは言っときたい

本当の「ジェンダー平等・ジェンダーレス」とは

何年も前からさかんに言われている「ジェンダー平等やジェンダーレス」。

しかし、なんかヘンだな、、、と感じている人は少なくないでしょう。

その直感、ある意味では間違っていないのです。

なぜかというと、今は、排除することが目的になっているからです。

 

自由に発言できることの大切さ

女性を蔑視するような発言があると、一斉に攻撃され、社会的に抹殺される。敏感に反応しますよね。でも考えてみると、つい最近まではそれが当たり前だった以上、無意識に出てしまうのは仕方がありません。人間は機械のように設定すればアップデートできるわけではないのですから。問題は、アップデートしたつもりが、実際には現実に合っていないケースで、ほとんどの日本人はこれに当たります。

一例をあげると、ちょうど先週テレビでどこかの市長だか政治家だかのセクハラについて討論していて、専門家が「企業も今は必ず研修を受けさせている」と言っていたこと。これは一見正しい意見のようで実際にはアウトです。ちょっと研修を受けて誤魔化せばいい、といっているのと同じ。

もう少し優しくてもいいんじゃないか。ジェンダー平等・ジェンダーレスとは、政治的・社会的正しさで敵を作り出して叩きのめすことではなく、相手を理解することを本質としているからです。

排除どころか、根本には、「なんでも自由に発言できる」、風通しの良い社会の雰囲気が必要なのです。

「正しすぎる」反差別が自由を奪う暴力に

不倫や性加害問題などを見るとわかるように、多くの人が一斉に・一方向へ向かっていく傾向があります。

そうなると、正しさは正しすぎる暴力になってしまいます。

ジェンダーを巡る歴史はどうなっているのか

この国において、あらゆる思想や制度が古代からの長い歴史の中で作られてきたことはいうまでもありません。男女の関係性も同じです。強いていうと、江戸の初期に大きな転換点がありました。徳川幕府の成立に伴って、ということですが、これも長い歴史の延長線にあります。

私たちに必要なのは、今ここで湧いている目の前の「ジェンダー」問題というのが、ごく一瞬の、ごく限られた範囲での正しさに過ぎないことを自覚する知性です。

誤解してほしくないのは、なにも反対しようというのではないということです。そのためにこれから説明していきます。

ひとまずここまで。

男らしさ・女らしさ、差別用語ジェンダーを巡る400年以上前からの歴史、沖縄・糸満の女性たち、遺伝子的考察など、知っておくべきポイントから解説していきます。

「どうする家康」について

唐突ですが昨年末に最終回を終えたどうする家康について、ここで少し解説しておきます。

見てなかった人はこのpart飛ばしてもらっても問題ありません。

まず、良い点悪い点含め総合的な評価を先にいうと、

60点 くらいです。

ポイントは以下の4点

  • 歴史的な視点
  • ドラマストーリーとして
  • キャスティングや演技
  • その他の要素

歴史的な視点

いわゆる歴史的な史実に合致しているかどうか、といったことですが、史実に合っていなくても、納得のいく解釈が提示されていれば問題ありません。

よく、「史実と違う」という理由で歴史研究家などが異論を叫んでいますが、あまり意味はないでしょう。今回でいうと、築山殿の設定をはじめ主に女性と男の武家社会との関連についてですが、時代背景や史実に照らして「ありえない」設定だとしても、ドラマである以上はそれだけで致命的な欠点にはなりません。史実の忠実さを求めるなら、歴史書を読んでいれば済む話で、わざわざドラマにする必要はありません。

築山の「ありえない」理想論でさえ、私は一定程度肯定的に受け取っていいと思います。この理想論は、世界の紛争や核兵器廃止論などを想起しますが、身近な例でいうと3.11の原発のことにも似ています。私たちは事故が起きたとき、しまった、と後悔したはずでした。うすうす、原発が危ないことを知りながら必要悪として核の平和利用に乗っかってしまった、たとえ理想論でもはっきりと核にNOを突きつけ続けるべきだった、と。理想論を排除して安易な現実路線を進むばかりでは時にこういうことが起きるわけです。たとえば今色んな事に隠れてしまっているウクライナの戦争も、ある日突然「その日・その時」を迎えるかもしれません。そしてそうなってしまってから「ありえない」理想論を軽視したことを後悔するのでしょう。

ドラマストーリーとして

まず一言でいうと、「もったいない」という印象。

全体のバランスとして、前半の今川家や築山殿までが異様に長く、後半が駆け足になってしまったことはマイナスでした。ただ、そのおかげで築山殿のラストシーンが名シーンになったメリットはありました。しかし私の見るところ、これは役者による効果が大きかったでしょう。有村架純の演技は神がかっていて、ここだけは大河ドラマ史上に残る名シーンといっていいほどでした。もう少し早い回でこのシーンがあったとしても、感動が薄れることはなかったと思われます。

いずれにしても後半が迷走する結果となり、家臣団との絆や戦乱の世を終わらせることや信長との関係や関ケ原や秀吉・茶々との関係などあらゆる要素が薄くなり、とにかくひと通り触れました、みたいになってしまった。

たとえば関ヶ原では重要なポイントとしての大津城の戦いはまったく触れられていません。詳細は省きますが、大津では浅井初が直接関連していて、後半の軸を家康と浅井3姉妹に設定するという方法もあったはずでした。実際に軸となった茶々も含め、すべての要素が混在しテーマがぼやけてしまった。それが一気に出たのが最終回でした。

築山殿が最終回に再登場するというのはドラマ的サプライズとしてまだいいでしょう。しかしいきなり天海が出てきて後世の家康のことに触れたり、春日局が孫の家光に語り聞かせているとか、信長の鯉の話や信康と五徳の結婚のシーンが長々と流れ続けるとか、あきらかに絞り切れず収拾がつかなくなり混乱してしまいました。

さらに、茶々が最後のシーンで現代批判のようなセリフをこれも長々としゃべることで違和感を通り越して見てられないシーンにしてしまいました。役者がかわいそうです。

とにかく徳川家康という文句なしのコンテンツにもかかわらずこうなってしまったことは罪が深いと言えます。マイナーな人物で(たとえばさきほどの京極高次などは大河でチャレンジしてもいいと思う)リスクを取るためにも、今回はちゃんと面白いドラマを作るべきだったろうとつくづく残念です。

キャスティングや演技

さきほど茶々のラストシーンのことを書きましたが、役者的にはかなりいい仕事をしていたと思います。お市の方との連続も悪くなかった。メイクスキルもあるとはいえ、よくあれだけ演じ分けられるものだと素人が見ても驚きです。

主演もいうほど悪くなかったと思います。全体的に女優さん(と書きます)のほうが良かった中ではいちおう存在感があったと思う。信長も狂気じみた感じがよく出ていた。

低調だったのは家臣団、それぞれ良い悪いはありますが中にはあきらかに演技力に問題がある、できればあまり出てほしくないと思ってしまう俳優までいましたね、それも複数。

秀吉は登場からしばらくは悪くなかったのですが年を取るごとに違和感が出てきて、晩年はメイク的には年寄りなのに眼だけが若いのが悪い方に出てしまっている。

これは大河に限ったことではありませんが、総じて男性の俳優が人不足なのでしょう。朝ドラでも演技的には厳しくてもいわゆるイケメンを出しておけば一定の視聴者がいるからなのか、それなら見る方にも問題があることになります。これはジャニーズ問題といえるかもしれません。メディアの本当の問題は忖度することで結果的にまともな役者を潰してしまったことなのかもしれません。

その他の要素

オープニングテーマや映像などは良かったと思います。ストーリーとリンクしますが、家康が戦乱の世を終わらせるというテーマや女性の存在感という時代が要請したテーマも、史実と違うとはいえドラマとしては必要だったと言うことはできます。

そして徳川家康による長い徳川幕府のはじまりが、現在のジェンダー問題だけでなく広く差別的社会の起点になっているということもまた事実です。なにも家康が悪の根源だというつもりはありません。そのあたりは追ってこれから解説していきます。

沖縄・糸満の女性たち

沖縄の空と海は本当に抜けるような青さと広さを持っています。沖縄の南部、糸満に住んでいた時、食や文化などいろいろ違いはありますが、いちばん驚いたのは女性たちの明るさでした。それこそ抜ける空の明るさ、太陽のように明るい。学生時代、アフリカのケニア・ナイロビの街で会った女性たちのことも思い出しました。ナイロビはアフリカとしてはかなり近代的な都市になっていますが、そこで働く女性たちの明るさにびっくりしたことを思い出し、あの時の感覚だ、と気付いたのでした。アフリカも、輝く太陽と澄み切った空の青さでは沖縄に負けていません。

「元始、女性は実に太陽であった。」平塚らいてうの言葉が浮かびました。

この平塚らいてうの言葉を少し誤解していたかもしれないとさえ思いました。

女性の権利とか平等とか、言葉では理解したつもりになっていたけれど、実際この女の人たちの明るさは何なのか、と。沖縄には、「男や気早く、女は尻ぐるく」ということわざがあります。読み方は「イキガヤチーベーク、イナグヤチビグルク」。男は迅速に決断し、女は仕事をさっさと片付けなさい、という意味で、男女それぞれの役目、望ましいあり方を示しているとされることわざ。今の日本人、現代的な価値観のなかで暮らしている私たちならば、男は動かずに決断して偉そうにしてけしからん存在だと、女は家の仕事をさせられ早く片付けなくてはならない損な存在、男女それぞれの役目とか望ましいあり方など時代錯誤そのものではないかと、そのままの意味に取ってしまえばそれで終わりなのですが、では女の人たちの明るさはいったい何なのか、となるのです。

どうにも私たちの価値観では理解できない。うかうかすると、これは無知で後進で未開な世界の女性たちの明るさと輝きなのか、と思ってしまうのが、やはりそうではなく、どこか違った見方があるのです。

糸満の女の人たちには同時に深い海の青さも備えていると思えるからです。では先進国といわれる私たち日本人の価値観とはいったい何でしょうか。世界的な基準に照らした適合度合、みたいなものでしょうか。世界的な基準とは、西欧系の価値観のことでしょうか。だとすると、それは世界の中のさまざまある価値感の中のひとつではあるけれども、同時にひとつに過ぎないともいえます。そこに本当のダイバーシティ・多様性はあるといえるのでしょうか。

いえ、不平等があるならそれは平等にしていく、不自由なら自由に、生きづらさがあるなら生きやすくしていく。これが社会を進めていくうえでの理想として必要ならばそれはそれで当たり前のことなので、否定する必要はありません。問題はあの輝く太陽のように明るい女性たちをそれで割り切ることができない。もしかすると人間というのはそんなに単純なものではないのかもしれない、やり方によっては女性たちからあの明るさ、輝きを奪おうとしていることになりかねないのではないか。あの女性たちの明るさと笑顔は、自由からきているものだとしかいいようがないからです。何の自由なのか。女であること。男でないこと。平等でも対等でもないこと。

実際、アメリカや日本の女性たちは常に社会や男や会社を警戒し、戦闘的に生きているように見えます。不自由さと戦っているようにさえみえる。糸満から見るとそう見えます。少なくとも糸満の女性たちと比べるとあきらかです。そして残念ながらその姿はけっして幸福そうには見えません。

私たちは本当に平塚らいてうの言葉を実現しようとしているのでしょうか。糸満の女性たちの持つ輝きと明るさはけっして他の女性たちに持てないものではないはずです。それを生かすも殺すも私たち次第なのではないでしょうか。

男らしさ・女らしさ、差別用語

私たちは、どこで何を話すにしても、慎重に言葉を選び、場の雰囲気を和ませるジョークさえ封印し、極めて神経質になり、各々の段階での失言を警戒しなくてはならなくなっています。むろんこれは健康的な状態とはいえません。自由な発言を制限されることは、そのまま自由な言葉を奪われることであり、自由な思考を妨げられることだからです。
たとえば差別的とされる言葉について、まず言葉の多様性をどう考えるかによって対応は大きく変わってきます。世界には様々な言語があり、国ごとに言語があるというより文化ごとにあるといってもいい。そこで使われる言葉は文化圏の歴史を内包しており、多様性に富んでいます。日本でいえばアイヌ語があったし、今も方言があり、しかし国家の都合などで禁止されたりしたことをきっかけに消滅しかけている言語もあります。そんな中、差別的であるという理由だけで多様性に富んだ言語の世界から言葉を抹殺していき、しかもそれが正しいとされ進行すれば、どうなるかはわかりきっています。言葉と言語の多様性を破壊し、使うべきとされる言葉を限定し、言語の統一化が進めば、その地域、その国の文化が破壊されるのと同じことであり、私たちはまさに今その現場を目の前にしています。
生物の多様性が破壊されればたちまち私たち人間も影響されるのと同じことです。多様性を重視した結果、なぜか自由な表現が制限され、結果多様性が殺される